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生駒山は大昔から神や仙人のようなお方が住む山と周辺から仰ぎあがめられ、巨巌や奇石、幾つかの窟から成る魁偉な姿の般若窟は、寺伝によれば、役行者が梵文般若経を書写して納め、弘法大師も若いころ修行された。
今から三百数十年前、伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九〜一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。
その後、京都に歓喜院を建て、独立した。しかし、ある日訪れた円忍律師の教えを受け、堺・神鳳寺(現、大鳥神社)で律師に戒を授かり、真の仏法とは何かを求めることに目覚めた。そして、道場だけの行に飽き足らず、大和葛城山麓の山林で千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として「生駒山の存在」を、念ずる不動明王に暗示された。
延宝六年(一六七八)十月十日、湛海は数人の弟子と生駒山に入った。村人や郡山藩家老らの援助と協力で翌年正月、五間四面の仮本堂が出来、湛海は念願の八万枚護摩を果たした。寺は当初、大聖無動寺と号した。

 

          

その後、湛海は聖天(大聖歓喜天)を山の鎮守に仰ぎ、益々の修行と理想の密厳浄土建設を目指した。 また、仏像彫刻や仏画制作の基本知識や技術にも優れ、本堂の本尊はじめ多くの作品を今に伝えている。生駒の伽藍は約十年でほぼ完成、名を寳山寺と改めた。
湛海は、さらに苦修練行、十万枚護摩を数限りなく積み重ね、生きながら悟りの境地に入ることを目指した。
「生駒に優れた験者あり」〜。うわさは関白近衛家熙の耳にも入り、家熙は湛海の祈祷で腫れ物が治った。効験が家熙を介して時の東山天皇、将軍徳川家宣にも聞こえた。天皇、将軍から「求子の祈祷」「世継ぎの安泰祈祷」が相次ぎ、湛海はその期待に応えた。住友家はじめ多くの商売関係者や庶民もお参りするようになった。
寳山寺は以後、大いに栄え、「生駒山」「生駒の聖天さん」と、現生利益を求める多くの人々の信心の寺となった。

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